眠り稲

2017.01.03.Tue.16:22

祖父が未だ子供の頃の話。 

その頃の祖父は毎年夏休みになると、

祖父の兄と祖父の祖父母が暮らす、田園豊かな山麓の村に、両親と行っていたのだという。 

その年も祖父は農村へ行き、遊びを良く知っている当時小学校高学年の兄と、

毎日毎日、朝から日が暮れるまで遊んでいた。

ある日、田んぼ沿いの道を、兄と虫網を持ちながら歩いていた。 

幼かった祖父は、眼前に広がる見事な青々とした稲達に感動して、

思わず「すげえ。これ、全部が米になるんか」と声に出してしまったのだ。

すると「そうじゃ。この村の皆が一年間食べる分じゃ」と言いながら、祖父の麦わら帽子に手を置いた。 

しばらく二人でその景観を見ていると、不意に兄が口を開いた。 

「なあ、健次(祖父の名前)。『眠り稲を起こすな』って知っとるか?」 

突然の質問に祖父は戸惑いながらも、首を左右に振った。 

「『眠り稲』は、この村に伝わる合言葉みたいな物でな。

 『稲が眠ったみたく穂を垂れても、病気じゃないから変に心配はせんでいい』っちゅう意味らしいんじゃ」

「へえ」と、祖父は驚きと納得が混ざった様な返事をする。

この稲が全部眠る事があるのかと思うと、なんとも言えぬ不思議な気分になったという。 

その夜、晩飯を食い終わり、祖父が縁側で心地よい満腹感を感じていた時、不意に兄から声がかかった。 

「健次、花火せんか?」

振り向くと、大きな袋を掲げた兄が立っている。 

祖父はすぐに「うん」と返事をした。

この年の子供達は、家の中では常に退屈している様な物である。 

二人は履物をつっ掛け、「ぼちぼち暗なってきたから、気ぃ付けえや」の声を背に、外へ出て行った。 

田んぼ沿いの道を、花火を持ちながら歩く。 

赤や黄の火花に見とれながら、度々着火の為に止まる。

そのまま一帯を散歩しようかとなっていた時だった。 

祖父が特別大きい花火を喜んで振り回していたら、近くの民家の窓が開き、祖父さんが怒鳴った。 

「くらあ!餓鬼共!そないな物振り回して、稲が燃えて駄目になりでもしたらどないしてくれる!」

いきなり知らない大人に怒鳴られて、祖父は勿論、兄もびっくりし、涙目になって逃げだしたという。 

祖父は今でも、家に帰り着いてから兄が、

「糞親父。今に見とき」と呟いたのを覚えているという。 

――深夜、祖父は自分を呼ぶ声で目を覚ます。 

目を開けると、徐々に輪郭を持ち始める闇の中に、兄の顔が見えたという。 

「なあ、面白い事考えたんじゃ」

一体何をこんな夜中に思い付いたのだろう。 

「今からあの糞親父の田んぼ行って、案山子を引っこ抜いたるんじゃ。健次も来るか?」 

祖父は余りに驚き、必死で首を振って拒否した。

「そうか、行かんか。それでもええんじゃ。けだし、大人達には俺じゃって事、ばらしてくれるなよ?」 

祖父は頷いた。

兄は一人で行って来るのだろうか? 

兄が部屋を出て行く気配を感じたのを最後に、また祖父は深い眠りに落ちて行った。 

――翌朝。

何か悪い夢を見た気がする。 

祖父は目を擦りながら、家族が待つであろう一階へ降りた。 

異様に静かだ。というより、誰もいない。 

祖父は嫌な予感がした。 

兄が取っ捕まったのじゃないだろうか? 

寝間着のまま急いでわらじを履いて、外へ駆け出した。 

田んぼ沿いの道を走る。

やがて例の農家が近付くと、異様な人だかりが見えた。 

嫌な予感はますます強まり、人だかりを必死でかき分けて、祖父は田んぼを見たという。

――そこには、案山子があった。 

いや、それは兄だった。 

両足を田んぼの泥に突っ込み、両手をバランスでも取る様に水平にしている。 

口からは涎が垂れ、目の焦点はあってない。 

「兄やん……?」

祖父はそう言うのがやっとだった。 

家族は兄を家に引きずる様にして連れ帰り、深刻な顔で話始めた。 

「眠り稲を起こしよったな…」 

「あれは気が触れてしまってるのう…」 

幼い祖父には、なんの事か分からない。

結局祖父には何も分からないまま、その年は早く地元へ帰り、

もう毎年兄の住む農村に帰る事はなくなったという。

『眠り稲を起こすな』

この言葉の真意を祖父が知ったのは、兄の葬儀の為に最後に農村へ帰った時。 

これが意味するのは、決して稲が穂を垂れても~という事じゃない。 

『草木も眠る丑三つ時、田んぼに行ってはならない』という、村の暗黙の了解の様な物だったのだ。 

丑三つ時の田んぼに行った兄。

タブーを犯してしまった兄に、あの夜何が起こったのかは分からない。

もしかすると、化け物に襲われたのかもしれない。 

とにかく、人間には想像すらできない様な正体を持つ伝承は、

日本のあちこちに、ひっそりと息を潜めているのだという。

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